モケイスイッチのこと [雑記]
VANには「モケイスイッチ」というものがついています。
「ON」の時は一心不乱に模型を作り続けますが、
「OFF」になるとパタッと手が止まってしまい全く作らなくなります。
現在は「ON」の状態です。
例年の状況から見て、どうも気温と湿度に深く関係しているようで、
気温と湿度が上がる梅雨時前後にスイッチが切れ、
夏の暑さがすぎ、涼しくなってくる秋頃にスイッチが入るようです。
今年は例年と違いブログという動機付けがあるのでどうなるかわかりません。
ひょっとしたら「ON」のまま乗り越えてしまうかもしれません。
「OFF」になるような事があればブログもしばらくお休みとなります。
そのときはここで報告します。
あけましておめでとうございます [雑記]
ブログ開設1周年になりました [雑記]
本日で当ブログは1周年を迎えることができました。
正直自分でもここまで続くとは思いませんでした。
これもひとえに読者の声なき応援に支えられての事と、
深く御礼申し上げる次第です。
1周年を機に、このブログの位置づけをまとめてみます。
このブログの楽しみ方
当ブログは、管理人であるVANが四苦八苦しながら模型を作る姿を、
半笑いで眺めて楽しむブログです。
たまにまじめな事も書きますが、寝言ですのであまり真に受けず、
話半分で聞いておくのがよいでしょう。
←左のフレームの「マイカテゴリー」から興味のある模型を選ぶと、
時系列順に効率よく制作日記を見ることができます。
このブログの目的
1、どこに注意して制作したか、反省点はどこかを記録することにより、
自身の制作スキルの向上に活用する。
2、それらを公開する事により、これから模型を制作しようと考えている読者に
指針を与える。
3、ぶっちゃけ、「こいつ、へったくそだなあ」とか、
「これなら俺の方がうまく作れるな」とか、どんな感想を持ってもかまいません。
このブログがきっかけとなって「よーし、いっちょ俺も作ってみるかー」
という気になっていただければシメたもの。
一緒に、「キング・オブ・ホビー(=趣味の王様)」である模型を楽しみましょう!
ヘタッピだっていいじゃない!
4、本筋からは離れますが、ブログ開設はひとつの実験でもありました。
このブログの開設を、友人、知人、家族にも話していません。知っているのは私だけ。
インターネットという巨大な情報網のなかにポッっと生まれたこの小さなブログに、
どのようにして人が集まり、どのように発展していくのか。
読者はどのような情報を求めてここにたどり着いたのか。
そういう所に興味がありました。
このブログのこれから
引き続き、模型を中心としたブログを展開していきます。
途中モケイスイッチが切れるかもしれませんが、その時は悪しからずご了承ください。
模型制作に当たっては、「手の届く範囲」「時間の許す範囲」で考証を行っています。
ただし戦史、造船技術等の知識は素人レベルですので、
考証は十分なものではないかもしれません。
よって後日考証が間違えていた場合、随時追記訂正を行っていきます。
より正確な情報提供を心掛けます。
前述の「実験」のため、今までこちらから積極的に他模型サイト、ブログに行って
交流する事を控えてきました。
so-netのブロガーだけの機能ですが、"nice!"のお返しも同様の理由で控えておりました。
いままで"nice!"を付けてくれた方、ごめんなさい。
この「実験」について、今後どのような方針でいくか決めかねています。
徐々に交流範囲を拡大する方向で考えていますが、
しばらくは、これまでのスタンスを維持する予定です。
これからも当ブログをよろしくお願いします。
直径900mmのちゃぶ台の上から生まれる模型の世界をお楽しみください。
正直自分でもここまで続くとは思いませんでした。
これもひとえに読者の声なき応援に支えられての事と、
深く御礼申し上げる次第です。
1周年を機に、このブログの位置づけをまとめてみます。
このブログの楽しみ方
当ブログは、管理人であるVANが四苦八苦しながら模型を作る姿を、
半笑いで眺めて楽しむブログです。
たまにまじめな事も書きますが、寝言ですのであまり真に受けず、
話半分で聞いておくのがよいでしょう。
←左のフレームの「マイカテゴリー」から興味のある模型を選ぶと、
時系列順に効率よく制作日記を見ることができます。
このブログの目的
1、どこに注意して制作したか、反省点はどこかを記録することにより、
自身の制作スキルの向上に活用する。
2、それらを公開する事により、これから模型を制作しようと考えている読者に
指針を与える。
3、ぶっちゃけ、「こいつ、へったくそだなあ」とか、
「これなら俺の方がうまく作れるな」とか、どんな感想を持ってもかまいません。
このブログがきっかけとなって「よーし、いっちょ俺も作ってみるかー」
という気になっていただければシメたもの。
一緒に、「キング・オブ・ホビー(=趣味の王様)」である模型を楽しみましょう!
ヘタッピだっていいじゃない!
4、本筋からは離れますが、ブログ開設はひとつの実験でもありました。
このブログの開設を、友人、知人、家族にも話していません。知っているのは私だけ。
インターネットという巨大な情報網のなかにポッっと生まれたこの小さなブログに、
どのようにして人が集まり、どのように発展していくのか。
読者はどのような情報を求めてここにたどり着いたのか。
そういう所に興味がありました。
このブログのこれから
引き続き、模型を中心としたブログを展開していきます。
途中モケイスイッチが切れるかもしれませんが、その時は悪しからずご了承ください。
模型制作に当たっては、「手の届く範囲」「時間の許す範囲」で考証を行っています。
ただし戦史、造船技術等の知識は素人レベルですので、
考証は十分なものではないかもしれません。
よって後日考証が間違えていた場合、随時追記訂正を行っていきます。
より正確な情報提供を心掛けます。
前述の「実験」のため、今までこちらから積極的に他模型サイト、ブログに行って
交流する事を控えてきました。
so-netのブロガーだけの機能ですが、"nice!"のお返しも同様の理由で控えておりました。
いままで"nice!"を付けてくれた方、ごめんなさい。
この「実験」について、今後どのような方針でいくか決めかねています。
徐々に交流範囲を拡大する方向で考えていますが、
しばらくは、これまでのスタンスを維持する予定です。
これからも当ブログをよろしくお願いします。
直径900mmのちゃぶ台の上から生まれる模型の世界をお楽しみください。
お見舞い申し上げます [雑記]
本日発生した地震で被災されたモデラー及びすべての方に
心からお見舞い申し上げます。
VAN
心からお見舞い申し上げます。
VAN
しばらくお休みします [雑記]
近日中に再開します [雑記]
くぉ〜! あらぶるやせいのぽーず!
お久しぶりです。暑さ寒さも彼岸まで。関東はやっと涼しくなってきました。
ということで、近日中に制作を再開いたします。
お休みしている間に、本を2冊ほど読みました。もっと読めるかと思ったんだけど…。
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 加藤陽子著 朝日出版社刊
2,3年前に少し話題になった本なんですが、買ってそのまま「積ん読」状態に
なっていたものをやっと読むことができました。
まず特筆しなくてはならないのは、この本が中高生に向けて行われた
5日間の講義録であるということです。
ですので、生徒と対話しながら話が進んでいきます。
明治以降、日清、日露、第一次世界大戦、満州事変と日中戦争、そして太平洋戦争、
と5章にわたり、「なぜ戦争という選択肢を選んだのか」という部分に焦点を当てて
「ロジックとしての戦争」について学んでいきます。
いわゆるLIVEですから、若干読みにくくまとまってない部分もあります。
内容も少し物足りなく感じますが、中高生には十分だと思います。
若いうちに読んでもらいたい1冊です。というかVANが若いうちに読んでおきたかった。
『日米衝突の根源 1858-1908』 渡辺惣樹著 草思社刊
帯のコピーがセンセーショナルですが、陰謀論とかそういった類の本ではありません。
日本に黒船が来航し、日米修好通商条約が締結された1858年から、
幕末〜明治の内乱、日清戦争、日露戦争を経て、
1908年、白色艦隊(the Great White Fleet)が日本に来航するまでの間、
アメリカでなにが起きていたかを膨大な資料を元に書いた近代史本です。
本の後半からは第26代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトを中心に
話が展開していきます。
本は少し厚いですが、文体はとてもやさしく読みやすいです。
いままで漠然と捉えていた歴史上の出来事ですが、その細かい内幕も調べてあり
史実のディティールをよりはっきりとつかむ事ができました。
これを読むと、アメリカの行動原理のようなものが透けて見えてきます。
現代アメリカにおいても変わらない部分、
また変わっている部分も見えてきて興味深い1冊でした。
お久しぶりです。暑さ寒さも彼岸まで。関東はやっと涼しくなってきました。
ということで、近日中に制作を再開いたします。
お休みしている間に、本を2冊ほど読みました。もっと読めるかと思ったんだけど…。
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 加藤陽子著 朝日出版社刊
2,3年前に少し話題になった本なんですが、買ってそのまま「積ん読」状態に
なっていたものをやっと読むことができました。
まず特筆しなくてはならないのは、この本が中高生に向けて行われた
5日間の講義録であるということです。
ですので、生徒と対話しながら話が進んでいきます。
明治以降、日清、日露、第一次世界大戦、満州事変と日中戦争、そして太平洋戦争、
と5章にわたり、「なぜ戦争という選択肢を選んだのか」という部分に焦点を当てて
「ロジックとしての戦争」について学んでいきます。
いわゆるLIVEですから、若干読みにくくまとまってない部分もあります。
内容も少し物足りなく感じますが、中高生には十分だと思います。
若いうちに読んでもらいたい1冊です。というかVANが若いうちに読んでおきたかった。
『日米衝突の根源 1858-1908』 渡辺惣樹著 草思社刊
帯のコピーがセンセーショナルですが、陰謀論とかそういった類の本ではありません。
日本に黒船が来航し、日米修好通商条約が締結された1858年から、
幕末〜明治の内乱、日清戦争、日露戦争を経て、
1908年、白色艦隊(the Great White Fleet)が日本に来航するまでの間、
アメリカでなにが起きていたかを膨大な資料を元に書いた近代史本です。
本の後半からは第26代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトを中心に
話が展開していきます。
本は少し厚いですが、文体はとてもやさしく読みやすいです。
いままで漠然と捉えていた歴史上の出来事ですが、その細かい内幕も調べてあり
史実のディティールをよりはっきりとつかむ事ができました。
これを読むと、アメリカの行動原理のようなものが透けて見えてきます。
現代アメリカにおいても変わらない部分、
また変わっている部分も見えてきて興味深い1冊でした。
1月17日の記録 [雑記]
今回はまったく模型とは関係のない記事です。
模型記事の更新と思って来られた方には申し訳ありません。
このエントリは読み飛ばしてください。
1995年(平成7年)1月17日。この日、VANは兵庫県明石市にいました。
以下は地震発生から2日後、兵庫区にある会社の事務所の確認と
長田区の友人の安否確認に行った際の記録です。
阪神淡路大震災の記録(1995年(平成7年)1月19日〜20日)
A Document of Great Hanshin earthquake (Jan. 19-20, 1995)
阪神高速3号線。
激しい縦揺れにより鉄筋コンクリート製の橋脚が圧縮され座屈している。
鋼製の橋脚にも歪みが生じている。地震で橋桁が跳ねたものと推測。
湊川ジャンクション付近。橋桁が脱落。
震災発生後3日目で、仮設の鋼材を組み倒壊を防ぐ措置が始まっていた。
長田区。絶句。言葉もない。
直下型の激しい縦揺れにより建築物の損傷も大きい。
1階が店舗や駐車場などになっている、いわゆる「下駄履き建築」は
軒並み1階部分が潰れていた。
警察の救助隊。撮影は午前7時頃だったと記憶。
誰かが埋まっているという情報を得ては現場に向かっていた。
自衛隊も到着し救助が始まっていた。
学校の校庭に設営された仮設テント。
長田警察署前。前が広い道路になっているが、前後が寸断され道路として機能せず
警察、消防、自衛隊等、緊急車両の駐車スペースになっていた。
長田神社の鳥居。
明石海峡大橋はこの時まだ建設中だった。
この地震で橋脚の間隔が1mずれた。
地震発生時刻で止まったままの時計。
ブログという、個人と世界をつなぐ手段を得て以来、
いつかはこの記録を公開したいと思っていました。
本日ネット上に公開します。
あっ長田の友人は無事でしたよ。最後の写真、時計の下の後ろ姿の彼がそうです。
模型記事の更新と思って来られた方には申し訳ありません。
このエントリは読み飛ばしてください。
1995年(平成7年)1月17日。この日、VANは兵庫県明石市にいました。
以下は地震発生から2日後、兵庫区にある会社の事務所の確認と
長田区の友人の安否確認に行った際の記録です。
阪神淡路大震災の記録(1995年(平成7年)1月19日〜20日)
A Document of Great Hanshin earthquake (Jan. 19-20, 1995)
阪神高速3号線。
激しい縦揺れにより鉄筋コンクリート製の橋脚が圧縮され座屈している。
鋼製の橋脚にも歪みが生じている。地震で橋桁が跳ねたものと推測。
湊川ジャンクション付近。橋桁が脱落。
震災発生後3日目で、仮設の鋼材を組み倒壊を防ぐ措置が始まっていた。
長田区。絶句。言葉もない。
直下型の激しい縦揺れにより建築物の損傷も大きい。
1階が店舗や駐車場などになっている、いわゆる「下駄履き建築」は
軒並み1階部分が潰れていた。
警察の救助隊。撮影は午前7時頃だったと記憶。
誰かが埋まっているという情報を得ては現場に向かっていた。
自衛隊も到着し救助が始まっていた。
学校の校庭に設営された仮設テント。
長田警察署前。前が広い道路になっているが、前後が寸断され道路として機能せず
警察、消防、自衛隊等、緊急車両の駐車スペースになっていた。
長田神社の鳥居。
明石海峡大橋はこの時まだ建設中だった。
この地震で橋脚の間隔が1mずれた。
地震発生時刻で止まったままの時計。
ブログという、個人と世界をつなぐ手段を得て以来、
いつかはこの記録を公開したいと思っていました。
本日ネット上に公開します。
あっ長田の友人は無事でしたよ。最後の写真、時計の下の後ろ姿の彼がそうです。
しばらくおまちください [雑記]
プレイバック湾岸戦争 [雑記]
昔録画したビデオテープがたくさんあるのですが、1台あるビデオデッキもいつまでもつかわからないし、見ないものはいい加減捨ててしまおうと思い、少しずつ処分しています。そんな中でも残しておいた方がいいな、と思う内容はブルーレイに焼いて保存しています。
先日、1991年1月17日録画の湾岸戦争開戦を報じるニュースのビデオが出てきて、興味深い内容でしたのでご紹介します。
なお、ビデオキャプチャーできる環境に無いため、テレビ画面をデジカメで直接撮影しています。
1991年1月17日午後7時のNHKニュース
この時報が懐かしい。
松平アナ若っ!
この日、アメリカを中心とする多国籍軍は「砂漠の嵐」作戦を発動。イラクに向けて空爆を開始します。
イラクのフセイン大統領はラジオで聖戦(ジハード)を呼びかけます。
「なうあー」でおなじみ日高レポートの日高義樹さん。当時はNHKのワシントン特派員でした。
この後NHKワシントン総局長まで務め、退職後は記者時代の人脈を生かし、アメリカの保守系シンクタンク、ハドソン研究所の客員上級研究員になります。
アメリカ合衆国第41代大統領、ジョージ・H・W・ブッシュ。
第43代大統領、ジョージ・W・ブッシュ(ジュニア)のお父さんです。
ディック・チェイニー国防長官は後のブッシュ(ジュニア)政権で副大統領を務めます。
コリン・パウエル統合参謀本部議長。
彼もまた後のブッシュ(ジュニア)政権で国務長官を務めることになります。
ソヴィエト社会主義共和国連邦「最初で最後の大統領」ミハイル・ゴルバチョフ。
この後、4月に訪日したりしますが、8月に共産党守旧派のクーデター事件が元でソ連は崩壊。この年の12月25日にあっけなく消滅します。
時の日本の首相は海部俊樹。
湾岸戦争開戦を受けて、政府は安全保障会議と臨時閣議を招集し対応を協議します。
政府は国連安保理決議を受け、湾岸地域の難民対策として、救援物資の供与や航空機など輸送手段の提供を行うため、民間機の使用や自衛隊機の派遣も検討する方針を打ち出します。
このとき、輸送に使用可能な自衛隊機はC-130輸送機のみでした。B-747政府専用機はまだなく、この年の9月に1号機を受領することになります。
野党各党党首と会談し法案成立の協力を要請しますが、野党各党は反対。
政府と野党「社民連」江田五月代表との会談。後ろに映っているのは後の首相となる菅直人。
この後、政府は自衛隊機を海外派遣するための「国連平和協力法案」をまとめ審議しますが、野党の反対や内閣法制局の憲法解釈により廃案。民間機の使用も国内航空会社は労組の反対で頓挫、結局アメリカの航空会社の機体をチャーターして行うことになります。
イラクが停戦を受け入れた後、ペルシャ湾に派遣される掃海部隊が、戦後初の自衛隊の海外派遣になります。
バブル崩壊直後とはいえ、日経平均はまだ2万越え。しかも戦争は早期に終結するとの観測を受けてこの日の終値は1000円を超える上げ幅です。
原油が安いっ!現在は1バレル80ドルくらいです。この日の為替相場は1ドル=134円くらいでした。
1991年1月19日午後7時半からの「ニュースセンター特集 湾岸戦争」
開戦から3日目。前日にイラクは突如イスラエルに向けて多数の短距離弾道弾を打ち込みます。
フセインはイスラエルを戦争に引き込み「アラブ対ユダヤ」の構図を作り出そうとしますが、イスラエルは踏みとどまり、この目論見は失敗に終わります。
着弾した弾頭が化学兵器であることを恐れているのがわかります。
軍事アナリスト、故江畑謙介氏の鮮烈なメジャーデビューでもありました。
ソ連軍のえらい人がNHKのインタビューを受けこんなことを言っています。
「砂漠の嵐」作戦の後、地上戦「砂漠の剣」作戦が行われますが、1ヶ月以上にわたる大規模空爆により戦意を喪失したイラク地上軍は、この元帥の予想に反し大量の投降者を出して潰走します。
番組の最後にイスラエル外務省とスタジオを電話でつなぎ、現地の様子をインタビューしていますが、答えている人は現在のイスラエル首相ですね。この時は外務次官でした。
あらためて振り返ってみると色々な発見があるものです。
次回からまた艦船模型に戻ります。
先日、1991年1月17日録画の湾岸戦争開戦を報じるニュースのビデオが出てきて、興味深い内容でしたのでご紹介します。
なお、ビデオキャプチャーできる環境に無いため、テレビ画面をデジカメで直接撮影しています。
1991年1月17日午後7時のNHKニュース
この時報が懐かしい。
松平アナ若っ!
この日、アメリカを中心とする多国籍軍は「砂漠の嵐」作戦を発動。イラクに向けて空爆を開始します。
イラクのフセイン大統領はラジオで聖戦(ジハード)を呼びかけます。
「なうあー」でおなじみ日高レポートの日高義樹さん。当時はNHKのワシントン特派員でした。
この後NHKワシントン総局長まで務め、退職後は記者時代の人脈を生かし、アメリカの保守系シンクタンク、ハドソン研究所の客員上級研究員になります。
アメリカ合衆国第41代大統領、ジョージ・H・W・ブッシュ。
第43代大統領、ジョージ・W・ブッシュ(ジュニア)のお父さんです。
ディック・チェイニー国防長官は後のブッシュ(ジュニア)政権で副大統領を務めます。
コリン・パウエル統合参謀本部議長。
彼もまた後のブッシュ(ジュニア)政権で国務長官を務めることになります。
ソヴィエト社会主義共和国連邦「最初で最後の大統領」ミハイル・ゴルバチョフ。
この後、4月に訪日したりしますが、8月に共産党守旧派のクーデター事件が元でソ連は崩壊。この年の12月25日にあっけなく消滅します。
時の日本の首相は海部俊樹。
湾岸戦争開戦を受けて、政府は安全保障会議と臨時閣議を招集し対応を協議します。
政府は国連安保理決議を受け、湾岸地域の難民対策として、救援物資の供与や航空機など輸送手段の提供を行うため、民間機の使用や自衛隊機の派遣も検討する方針を打ち出します。
このとき、輸送に使用可能な自衛隊機はC-130輸送機のみでした。B-747政府専用機はまだなく、この年の9月に1号機を受領することになります。
野党各党党首と会談し法案成立の協力を要請しますが、野党各党は反対。
政府と野党「社民連」江田五月代表との会談。後ろに映っているのは後の首相となる菅直人。
この後、政府は自衛隊機を海外派遣するための「国連平和協力法案」をまとめ審議しますが、野党の反対や内閣法制局の憲法解釈により廃案。民間機の使用も国内航空会社は労組の反対で頓挫、結局アメリカの航空会社の機体をチャーターして行うことになります。
イラクが停戦を受け入れた後、ペルシャ湾に派遣される掃海部隊が、戦後初の自衛隊の海外派遣になります。
バブル崩壊直後とはいえ、日経平均はまだ2万越え。しかも戦争は早期に終結するとの観測を受けてこの日の終値は1000円を超える上げ幅です。
原油が安いっ!現在は1バレル80ドルくらいです。この日の為替相場は1ドル=134円くらいでした。
1991年1月19日午後7時半からの「ニュースセンター特集 湾岸戦争」
開戦から3日目。前日にイラクは突如イスラエルに向けて多数の短距離弾道弾を打ち込みます。
フセインはイスラエルを戦争に引き込み「アラブ対ユダヤ」の構図を作り出そうとしますが、イスラエルは踏みとどまり、この目論見は失敗に終わります。
着弾した弾頭が化学兵器であることを恐れているのがわかります。
軍事アナリスト、故江畑謙介氏の鮮烈なメジャーデビューでもありました。
ソ連軍のえらい人がNHKのインタビューを受けこんなことを言っています。
「砂漠の嵐」作戦の後、地上戦「砂漠の剣」作戦が行われますが、1ヶ月以上にわたる大規模空爆により戦意を喪失したイラク地上軍は、この元帥の予想に反し大量の投降者を出して潰走します。
番組の最後にイスラエル外務省とスタジオを電話でつなぎ、現地の様子をインタビューしていますが、答えている人は現在のイスラエル首相ですね。この時は外務次官でした。
あらためて振り返ってみると色々な発見があるものです。
次回からまた艦船模型に戻ります。
謎の「零戦」を追う [雑記]
そんな大それた話ではないのですが、少々お付き合いを。
埼玉県さいたま市見沼区(旧大宮市砂町)に砂団地という昭和30年代に建てられた団地がありまして、その中に公園があり、都電の車両(路面電車)1台と実物の飛行機が1機置いてありました。近所に住むVANや子供たちは皆その飛行機を「零戦」と呼び、よくそこで遊んでいました。
大人になって、いったいあの飛行機はなんだったのだろうと気になり出し、調べてみることにしました。
当時の記憶をたどってみると、VANが遊んだ昭和40年代後半〜50年代初頭の時点で、
・機体は金属製の単葉機。
・複座型。
・星型エンジン。(エンジンカウルは無くなっていた)
・プロペラは金属製。スピナーは元からないか脱落したか付いていない。
・塗装は全て剥げて地金が露出。機内塗装は薄い緑色。
と、確実な部分はこのくらいしか覚えがありません。
複座である時点で「零戦」の可能性は消えてるのですが、プロペラが何枚だったか、ランディングギアが引き込み式であったかどうか、記憶が曖昧で判然としません。
国土地理院ホームページ内の「地図・空中写真閲覧サービス」を利用してみます。
1974(昭和49)年12月26日撮影の航空写真に小さいながら写っています。
(出典:国土地理院 写真番号:CKT7415-C5-19)
ただ、これだけでは機種を特定する決め手に欠け、ここで調査は行き詰まってしまいました。
その後しばらくこの件は放置していたのですが、さいたま市立図書館のホームページで「レファレンスサービス」というものがあることを知り、利用してみることにしました。
レファレンスサービスとは、都道府県や市町村などの公立図書館で資料を探す手伝いをしてくれるサービスです。さいたま市立図書館の場合はホームページから受け付けができ、回答はメールでもらえます。しかも無料です。(全ての公立図書館を調べたわけではないので、やってないところもあるかもしれません。)
その結果、該当する新聞記事があるとの回答をいただいて、資料のある大宮図書館まで行ってきました。過去の新聞は閉架にあり、司書の方にお願いして出してもらいました。下の画像がその記事です。
(出典:埼玉新聞 昭和43年7月26日付2版 7面)
写真を見ると、エンジンカウル、2翅のプロペラ、主翼のライト、引き込み式のランディングギア、垂直尾翼などから、この飛行機はアメリカの練習機「T-6 テキサン」のようです。また、機体の塗装は現役時代のものとは異なるようです。
「T-6 テキサン」は真珠湾攻撃を描いた映画「トラ・トラ・トラ!」(1970年、日米合作)で零戦のプロップとして使われるくらいですから、詳しくない子供なら零戦と見間違えてしまうでしょう。
記事によると、
『飛行機はプロペラの二人乗り練習機で、入間基地の野原に分解されていたのを航空知識の普及と言う名目で無償貸与してもらい、六月二十四日に持ち込んで組み立てた。』
とあります。
「T-6 テキサン」は中間練習機として1955年(昭和30年)から航空自衛隊に180機配備されました。1964年(昭和39年)までにテキサンによる操縦教育は終わり、航空救難機及び連絡機として24機が残され、1070年(昭和45年)までに全機が退役しています。
入間基地は戦前は陸軍の航空士官学校で、戦後米軍に接収されジョンソン基地となり、1958年(昭和33年) 8月、日本に返還され、航空自衛隊入間基地となりました。
1960年(昭和35年)浜松南基地から航空救難隊本部が入間基地に移動してきていることから、この「T-6 テキサン」は入間基地に配備された航空救難機である可能性が高いと思われます。
日本国 航空自衛隊 T-6 テキサン 航空救難機(於 所沢航空発祥記念館)
改めてテキサンを調べ直してみると、ウィキペディアの英語版にコクピット内部の画像がありました。
ああ…このラダーペダル確かに見覚えあるな…。特にペダル面の模様。
前席操縦桿の根元は後席の操縦桿とシャフトで繋がっていて、動きをトレースできるようになっていたはず。子供ながら、なるほどなーと感心した覚えがあります。
(出典:Wikipedia North American T-6 Texan(英語))
その後、VANも成長すると公園には寄らなくなり、テキサンの最後は詳しくはわからないのですが、老朽化して危険と判断されたのか、昭和50年代後半には都電とともに撤去されてしまったようです。
現在の公園の姿です。正面の遊具のあたりに都電の車両が、左の建物の奥のあたりにテキサンが置いてありました。
なんでこんなことを書いたのかというと、VAN以外にもこの公園の飛行機について調べている人をネット上で何人か見かけ、誰も明確な答えにたどり着いていなかったからです。正解を書いておけば、同じ疑問を持った人が検索して、いずれここにたどり着くことでしょう。
また、可能性は低いけど旧軍機だったらおもしろいな、という期待も少しありました。
当時の子供の遊び方といえば、翼の上でバンバン跳ね回るわ、木の棒でつついて機体に穴開けるわ、その穴から砂やら石やら放り込むわ、プロペラぐるぐる回して頭ぶつけるわ、怪我上等、危険極まりないものでした。今の親御さんが見たら卒倒すること間違いなしです。
しかし、VANを含め当時この飛行機で遊んだ子供たちは、ジュラルミンの手触り、黒光りしたプロペラの固さ、コックピット内の埃と油の混ざったような匂いを、実体験として知っています。これはちょっとした自慢です。
(T-6テキサン画像追加:2017/07/02)
埼玉県さいたま市見沼区(旧大宮市砂町)に砂団地という昭和30年代に建てられた団地がありまして、その中に公園があり、都電の車両(路面電車)1台と実物の飛行機が1機置いてありました。近所に住むVANや子供たちは皆その飛行機を「零戦」と呼び、よくそこで遊んでいました。
大人になって、いったいあの飛行機はなんだったのだろうと気になり出し、調べてみることにしました。
当時の記憶をたどってみると、VANが遊んだ昭和40年代後半〜50年代初頭の時点で、
・機体は金属製の単葉機。
・複座型。
・星型エンジン。(エンジンカウルは無くなっていた)
・プロペラは金属製。スピナーは元からないか脱落したか付いていない。
・塗装は全て剥げて地金が露出。機内塗装は薄い緑色。
と、確実な部分はこのくらいしか覚えがありません。
複座である時点で「零戦」の可能性は消えてるのですが、プロペラが何枚だったか、ランディングギアが引き込み式であったかどうか、記憶が曖昧で判然としません。
国土地理院ホームページ内の「地図・空中写真閲覧サービス」を利用してみます。
1974(昭和49)年12月26日撮影の航空写真に小さいながら写っています。
(出典:国土地理院 写真番号:CKT7415-C5-19)
ただ、これだけでは機種を特定する決め手に欠け、ここで調査は行き詰まってしまいました。
その後しばらくこの件は放置していたのですが、さいたま市立図書館のホームページで「レファレンスサービス」というものがあることを知り、利用してみることにしました。
レファレンスサービスとは、都道府県や市町村などの公立図書館で資料を探す手伝いをしてくれるサービスです。さいたま市立図書館の場合はホームページから受け付けができ、回答はメールでもらえます。しかも無料です。(全ての公立図書館を調べたわけではないので、やってないところもあるかもしれません。)
その結果、該当する新聞記事があるとの回答をいただいて、資料のある大宮図書館まで行ってきました。過去の新聞は閉架にあり、司書の方にお願いして出してもらいました。下の画像がその記事です。
(出典:埼玉新聞 昭和43年7月26日付2版 7面)
写真を見ると、エンジンカウル、2翅のプロペラ、主翼のライト、引き込み式のランディングギア、垂直尾翼などから、この飛行機はアメリカの練習機「T-6 テキサン」のようです。また、機体の塗装は現役時代のものとは異なるようです。
「T-6 テキサン」は真珠湾攻撃を描いた映画「トラ・トラ・トラ!」(1970年、日米合作)で零戦のプロップとして使われるくらいですから、詳しくない子供なら零戦と見間違えてしまうでしょう。
記事によると、
『飛行機はプロペラの二人乗り練習機で、入間基地の野原に分解されていたのを航空知識の普及と言う名目で無償貸与してもらい、六月二十四日に持ち込んで組み立てた。』
とあります。
「T-6 テキサン」は中間練習機として1955年(昭和30年)から航空自衛隊に180機配備されました。1964年(昭和39年)までにテキサンによる操縦教育は終わり、航空救難機及び連絡機として24機が残され、1070年(昭和45年)までに全機が退役しています。
入間基地は戦前は陸軍の航空士官学校で、戦後米軍に接収されジョンソン基地となり、1958年(昭和33年) 8月、日本に返還され、航空自衛隊入間基地となりました。
1960年(昭和35年)浜松南基地から航空救難隊本部が入間基地に移動してきていることから、この「T-6 テキサン」は入間基地に配備された航空救難機である可能性が高いと思われます。
日本国 航空自衛隊 T-6 テキサン 航空救難機(於 所沢航空発祥記念館)
改めてテキサンを調べ直してみると、ウィキペディアの英語版にコクピット内部の画像がありました。
ああ…このラダーペダル確かに見覚えあるな…。特にペダル面の模様。
前席操縦桿の根元は後席の操縦桿とシャフトで繋がっていて、動きをトレースできるようになっていたはず。子供ながら、なるほどなーと感心した覚えがあります。
(出典:Wikipedia North American T-6 Texan(英語))
その後、VANも成長すると公園には寄らなくなり、テキサンの最後は詳しくはわからないのですが、老朽化して危険と判断されたのか、昭和50年代後半には都電とともに撤去されてしまったようです。
現在の公園の姿です。正面の遊具のあたりに都電の車両が、左の建物の奥のあたりにテキサンが置いてありました。
なんでこんなことを書いたのかというと、VAN以外にもこの公園の飛行機について調べている人をネット上で何人か見かけ、誰も明確な答えにたどり着いていなかったからです。正解を書いておけば、同じ疑問を持った人が検索して、いずれここにたどり着くことでしょう。
また、可能性は低いけど旧軍機だったらおもしろいな、という期待も少しありました。
当時の子供の遊び方といえば、翼の上でバンバン跳ね回るわ、木の棒でつついて機体に穴開けるわ、その穴から砂やら石やら放り込むわ、プロペラぐるぐる回して頭ぶつけるわ、怪我上等、危険極まりないものでした。今の親御さんが見たら卒倒すること間違いなしです。
しかし、VANを含め当時この飛行機で遊んだ子供たちは、ジュラルミンの手触り、黒光りしたプロペラの固さ、コックピット内の埃と油の混ざったような匂いを、実体験として知っています。これはちょっとした自慢です。
(T-6テキサン画像追加:2017/07/02)
しばらくお休みします [雑記]
お見舞い申し上げます [雑記]
今後について [雑記]
前回の「氷川丸」制作にとても時間がかかってしまいました。これには2つ理由があります。(最終盤の事故はのぞく)
理由1:
この1〜2年ほどの間に、視力がかなり衰えました。恥ずかしい話ですが、これが「老眼」というもののようです。今かけている近視用の眼鏡ではうまくピントが合わず、遠近感も把握しづらくなってきました。これが思いのほかストレスになり、集中力が続かなくなってきました。
「氷川丸」の前に1/350スケールの「すがしま」を作りましたが、視力が追いつかないなら大きいスケールが楽かも、と考えて試験的に挑戦してみた次第です。結果は「どっちのスケールも大変だ」という結論になりましたが。
理由2:
新しい趣味が増えました。登山です。増えたというか、模型と同じでこれも出戻りですけど。
10代〜20代の頃によく登っていて、富士山(日本1位)、北岳(2位)、間ノ岳(3位)はすでに踏破済みです。かつて登った山に再び登りたい、登ったことのない山にも登ってみたい、という思いが年々強くなってきたのです。
中高年の登山ブームを横目で見ながら、「おっさんになってからまた山登り始めるなんてだせーよなー」と若い頃の自分は思ってました。しかしおっさんになってわかったのですが、体力の限界を感じ始めると「まだ体力の残ってるうちにできることをやっておきたい!」という激しい欲求に駆られるのです。山は逃げないってよく言いますけど、体力は逃げます。以前に報告した25kgの減量も、このためのトレーニングの一環でした。幸運にもVANは40代の内にこのことに気付きました。50代60代で気付くよりも、できることはずっと多いはずです。
山行は年に3〜4回程度と考えているので、それ自体は模型の制作に大きな影響を与えるものではありませんが、登山計画作成や日々のトレーニングなどに費やす時間は増えます。
模型をまったくやめてしまうわけではありません。ただ、今後はこれまでのようなペースでは作れないということをご承知おきいただきたいと思います。
また、このブログが登山ブログになってしまうこともありません。「ヤマケイオンライン(YAMAKEI ONLINE)」という登山ポータルサイトにアカウントを作成しました。ハンドルネームはここと同じく「VAN」で登録しています。山行記録はまだ少なく低山しか登ってませんが、興味のある方はご覧ください。
ということで、「海(船)から山へ」「インドアからアウトドアへ」という大回頭。真逆のベクトルですが、今後も生暖かく見守っていただければ幸いに存じます。
次回より新しい制作に入ります。
理由1:
この1〜2年ほどの間に、視力がかなり衰えました。恥ずかしい話ですが、これが「老眼」というもののようです。今かけている近視用の眼鏡ではうまくピントが合わず、遠近感も把握しづらくなってきました。これが思いのほかストレスになり、集中力が続かなくなってきました。
「氷川丸」の前に1/350スケールの「すがしま」を作りましたが、視力が追いつかないなら大きいスケールが楽かも、と考えて試験的に挑戦してみた次第です。結果は「どっちのスケールも大変だ」という結論になりましたが。
理由2:
新しい趣味が増えました。登山です。増えたというか、模型と同じでこれも出戻りですけど。
10代〜20代の頃によく登っていて、富士山(日本1位)、北岳(2位)、間ノ岳(3位)はすでに踏破済みです。かつて登った山に再び登りたい、登ったことのない山にも登ってみたい、という思いが年々強くなってきたのです。
中高年の登山ブームを横目で見ながら、「おっさんになってからまた山登り始めるなんてだせーよなー」と若い頃の自分は思ってました。しかしおっさんになってわかったのですが、体力の限界を感じ始めると「まだ体力の残ってるうちにできることをやっておきたい!」という激しい欲求に駆られるのです。山は逃げないってよく言いますけど、体力は逃げます。以前に報告した25kgの減量も、このためのトレーニングの一環でした。幸運にもVANは40代の内にこのことに気付きました。50代60代で気付くよりも、できることはずっと多いはずです。
山行は年に3〜4回程度と考えているので、それ自体は模型の制作に大きな影響を与えるものではありませんが、登山計画作成や日々のトレーニングなどに費やす時間は増えます。
模型をまったくやめてしまうわけではありません。ただ、今後はこれまでのようなペースでは作れないということをご承知おきいただきたいと思います。
また、このブログが登山ブログになってしまうこともありません。「ヤマケイオンライン(YAMAKEI ONLINE)」という登山ポータルサイトにアカウントを作成しました。ハンドルネームはここと同じく「VAN」で登録しています。山行記録はまだ少なく低山しか登ってませんが、興味のある方はご覧ください。
ということで、「海(船)から山へ」「インドアからアウトドアへ」という大回頭。真逆のベクトルですが、今後も生暖かく見守っていただければ幸いに存じます。
次回より新しい制作に入ります。