やはり実物があるのですからこれを見ない手はありません。
ということで、ひと月以上前ですがゴールデンウィークに「氷川丸」を見てきました。


日本郵船株式会社 貨客船「氷川丸」
Nippon Yūsen Kabushiki Kaisha (Japan Mail Shipping Line) ocean liner HIKAWA MARU



船体の鋲接構造が見て取れます。





ボートデッキ。グラビティダビット。


煙突廻りの配管は当時とは若干配置が異なるようです。


船首第1第2船艙口廻り。露天部のデッキ上は木甲板ではなく、防水処理がされています。



左舷プロムナードデッキ。


山下公園に係留されてから、ブリッジデッキからアフトボートデッキにかけて甲板が増設されています。第4船艙口も閉止され、第5第6船艙も確認できません。夏場はビアガーデンになるそうです。


船橋後部。


船橋左舷扉。


テレグラフ。


操舵輪。


船橋には氷川神社の神棚があります。「氷川丸」の船名は、埼玉県さいたま市にある「氷川神社」から命名されました。
日本郵船の船名の多くは日本の土地の名や神社の名に由来するそうです。


「氷川神社」の紋「八雲」がエントランスロビーの手摺にレリーフされています。


一等ラウンジ。
病院船改装時、多くの調度品は取り外され第5第6番船艙下艙に収納されましたが、この一等ラウンジを含めいくつかの部屋の調度品はそのままの状態でした。


映画「海軍病院船」で、恩賜の包帯を受け取るシーンに使われています。

(出典:映画「海軍病院船」)

舷窓よりみなとみらい地区を望む。


機関室。デンマークB&W社製ダブルアクティング・ディーゼルエンジン。


ちょうど映画と同じアングルで写真撮ってました。
70年以上前と同じ。当たり前ですけどちょっと不思議な気分です。


(出典:映画「海軍病院船」)


現在、甲板上を見学できるルートは、左舷プロムナードデッキ、第3船艙口廻り、船橋部周辺部に限られていて、船上の細かいディティールを確認するのが難しくなっています。以前はもっと見学ルートは長かったようです。
氷川丸を離れて、日本郵船歴史博物館に向かいます。


公園のネモフィラがきれいでした。


大桟橋より「氷川丸」を望む。


大桟橋には大きな客船が停泊していました。


「セレブリティ・ミレニアム」という客船のようです。近づいてみたらめちゃくちゃデカかった!


日本郵船歴史博物館。
残念ながら、展示物は撮影禁止ということでした。
必ず見ておきたいのは、アメリカのウィスコンシン海洋博物館より返還され、昨年から公開されている「氷川丸」の1/48スケール金属模型です。竣工時の図面に基づいて製作されており、艦船模型をやっていると必ず一度はその名を耳にするという籾山艦船模型製作所の作品です。
参考資料の「氷川丸ガイドブック」は、ここのお土産売り場で売ってます。一部500円です。



ついでに船名の元である「氷川神社」にも行ってきました。
氷川神社はVANの家から自転車キコキコこいで行ける距離にあります。

武蔵一宮 氷川神社
Hikawa Shrine (Saitama Prefecture, Japan)


拝殿。奥に本殿があります。


八雲の紋は拝殿の奥にあります。



武蔵国一宮(三宮とする説もあり)の社格をいただく霊験あらたかな神社です。全国初詣参拝者ランキングで毎年トップ10圏内を維持しています。あまりに混雑するので最近は初詣行ってませんけど。
昨年海底で発見された戦艦「武蔵」の艦内神社もこの氷川神社より分祀されたものです。
その由緒は第5代考昭天皇の時代の創立とされ、第12代景行天皇の皇子ヤマトタケルが東征の途中立ち寄ったとの伝説もあります。
神社が建てられる以前は、縄文の神ともいわれる謎多き神「アラハバキ」が祀られており、現在氷川神社の摂社として祀られている「門客人神社」は、かつて「荒脛巾(アラハバキ)神社」と呼ばれていたそうです。神代の時代のことで詳らかにすることはできませんが、ヤマト王権が東に勢力を拡大する過程で神々の交代があったことをうかがわせています。

門客人神社。(かつての荒脛巾(アラハバキ)神社)


さて、そのアラハバキの時代、この氷川神社周辺はどうだったかというと、「縄文海進」という海面上昇があり、この一帯まで海岸線になっていました。

縄文海進時代の海岸線(約5000年前)


これを見ると、アラハバキを祀っていたランドマーク(氷川神社)が、大宮台地に深く切り込んだ入江の最奥に位置していることがわかります。このことは、このランドマークがなにかしら海と関連するものであったことを示しています。
縄文海進が終わり、徐々に海岸線が後退したあと、氷川神社周辺に「見沼」と呼ばれる広大な沼地が残されました。氷川神社から見て下流域にある氷川女体神社では、かつて神輿を船に乗せ沼に浮かべて祀る「御船祭」があり、男体社である氷川神社も、水、あるいは水神に関わりの深い神社であったと考えられています。
また、この見沼とその流域の芝川は、江戸時代から昭和初期にかけて内陸部と江戸(東京)とを結ぶ重要な輸送手段「見沼通船」があり、航路の安全、商売繁盛をこの氷川神社で祈祷したであろうことは、想像に難くありません。

このように、いにしえより海と水運に深くつながる氷川神社の名を商船に冠するのは、とても理にかなっていると言えるではないでしょうか。
と、トンデモ理論をぶち上げたところで次回から製作に入ります。